こんにちわ。みみです。
世の中にたくさんあるブログ中から私を見つけて下さりありがとうございます。
このブログを見に来て下さる人は、40歳過ぎ~50歳あたりの
アラフォー、アラフィフ世代の方だと思います。
子育てと家事&仕事の両立、めちゃくちゃ大変ですよね?
母親っていつも自分のことは後回し。
気がついたら、もうこんな年齢
先を考えると、このまま人生終わっちゃうの?
自分が描いていた人生とか、家族との関わりってこうだったけ?
ちょっと立ち止まって考えた時に
「このままでは、やっぱりイヤ」
忙しすぎて、時に自分の感情殺して頑張ってきたけど
自分自身のこと、もっと大切にしたい。
人生一度きりだだら。
そう思い立って、いろいろ考えて試したものの
そんな簡単に望む道筋つかめないのが現実ですよね(笑)
そんな私が、やっとこれだ!と見つけたこと。
それは
スキル0からWebマーケティングを身に付け、職場や時間に縛られずに稼ぎ続けること!
そして
自分が人生かけて大切にしたい家族と過ごす時間をたーっぷり持つこと!
マジな話、収入ないと理想も叶えられない。
49歳で遅い!!
そう、思われるかもしれません。
だけど、どれだけの人が同じように思いながら行動できてると思いますか?
少なくとも私の職場にはすぐには見つけれませんでした。
このブログでは、私がスキル0からWebマーケティングを身に付け
「看護師しかできない」の沼から脱出
自宅に居ながら月収30万を稼ぐまでの道のりを公開しています。
本題に入る前に、このページでは私が
・どんな人生を歩み
・その時々に何を感じ、どう捉えてきたのか
・なぜ49歳の今なのか
・なぜWebマーケティングなのか
について、各年代別で紹介したいと思います。
「人生一度きり」
そんなのは百も承知。
・だから今より人生を良くしたいと思っているけど
いったい何から始めていいのか さっぱりわからない。
・悩みながら、なかなか一歩が踏み出せずにいる人
そんな人は是非、このブログを覗いていって欲しいと思います。
人とは少し違った、中身の濃い人生を歩んできたからこそ伝えたいこともあります。
長くなりますが、お付き合いいただけると嬉しいです。
幼少期:最高に幸せだった時代
私は、サラリーマンの父と看護師の母、3歳上の兄との4人家族でした。
高台の家からは遠くに海が見え、私はそこからの眺めが大好きでした。
この頃は、家族も仲が良く幸せだったと記憶しています。
小学校時代:歯車が狂いだした家族
私が小学校4年生まで母は専業主婦で、その生活にはゆとりはありませんでした。
いつからか兄は素行が悪く、常に親とケンカ。
その度合いも年々ひどくなり、窓ガラスが割られたり、鉄製の分厚い玄関扉はゴルフクラブで殴られ凹んでいました。私はそんな激しいケンカの状況をいつもビクビクして恐怖に感じ、怖くて泣いていたことを記憶しています。
母は、経済的疲労と兄の対応に困り果てていたせいか、何度となく私に「一緒に死のう」と誘いをかけてきました。もちろん毎回お断り。
そして、このことは誰にも言えませんでした。
その後、母は看護師として仕事に復職。夜勤もこなすフルタイム勤務を始めます。
私はこの時、初めて母の職業が看護師であることを知りました。当時、看護師と言えば
まだ「憧れ」の職業とされていて少し自慢気でした。
母が仕事を始めて経済的には立て直った様に感じましたが、この時点で家族はバラバラ。
朝早くて夜遅く帰宅する父、不登校の兄、友人宅に入り浸る私。家族と食卓を共にすることはありませんでした。
私は仕事も家事もこなす母を気遣い手伝いをする、なんてことは1ミリもない最低な娘。
母は母でとても気が強く、弱音なんて見せることはありませんでした。
中学生時代:進路を決める
中学生2年生の頃、将来の職業についてぼんやり考えます。
私は母と同じ看護師になることに憧れ、大阪府内に一校しかない衛生看護科のある高校へ進学先を決めます。これと前後していたのか、記憶は定かではありませんが、この頃母の
乳がんが発覚します。ずっと気づいていたのに言い出せなかった母は、職場の同僚に引っ張られ病院を受診。結果は、乳がんステージⅣ 末期状態で骨への転移もありました。
ずっと腰の痛みに悩んでいたのもこれが原因でした。
一先ず手術はしたものの、その後の抗がん剤治療・副作用に苦しめられ、私が知ってる強い母の面影はありませんでした。
これ以降私は今でいう「ヤングケアラー」となり、周囲に協力者もいない状態で生活していきます。
高校時代:最高に楽しい学校生活と人生最大に悲しみ
望みどおり衛生看護科のある高校へ進学し、学校生活は最高に楽しい時間でした。
女子高ということもあり、男子の目を気にすることなく初めて「自分」というものを表現できた場所でした。看護の勉強はどれも新鮮で楽しく、引っ込み事案だった私の性格を大きく変えました。
「好き」がこれだけ人を積極的な性格に変える
「もっと知りたい」と好奇心を掻き立てる
そんな楽しい学校生活の反面、家庭は崩壊していました。母は病気で療養中。なんとか台所には立ててはいたものの、入浴やトイレへの移動などサポートが必要でした。
兄は不良仲間と爆音でバイクや車を乗り回し近所迷惑なことばかり。それが日常化していた高校2年の春、父が自死。後に知りましたが借金があったようです。
父の保険金でしばらく生活する予定でしたが、その保険金の大半を兄が使い果たしていたことが後に判明。追い打ちをかけるように母の体調は悪化し、再入院となりました。
今まで親に迷惑をかける兄を「あんな人間にはならない」とどこか冷静に、反面教師にしていましたが、今回のことを機にその感情は恨みに変わります。
高校3年の頃には、母のがんは脳に転移していました。会話が通じなかったり、身体に入っているチューブを抜こうとしたりするため、付き添いが必要となり私は病院に寝泊まりしながら臨床実習へ通っていました。
母の意識がまだ清明に近い頃、母と約束したことがあります。それは、母が卒業した看護学校へ私も通うことでした。母は病院付属の看護学校を卒業後、看護師として働き患者であった父と出会い結婚していました。
私は、母が辿った同じ道に身を置き共通する「何か」を持っていたいと思いました。
そしてこの約束だけは絶対に守ると心に決めました。
家に帰ると常にひとりぼっち。受験勉強しながら何度も悲しくて泣きました。
けれどある時、泣いても何も変わらない現状に
泣いても無駄。母の病気が良くなることがないなら
約束を守るためにとにかく頑張ろう
そんな風に気持ちを切り替えるきっかけがやってきました。
それ以降、とにかく勉強しました。
看護学校受験の1次試験が終了した夜、母は危篤状態となりました。そして翌日の2次試験の最中、母は息を引き取りました。何となくですが「役目が終わった」と安堵して息を引き取ったように感じました。
お見舞いも受験勉強もしなくて良くなると、寂しさと悲しみがこみ上げ、私はこれから人生で流す全ての涙を流し尽くしたと思うくらい泣きました。
人が「死ぬ」ということについてとても考えさせられました。
そして、どうしてこんなに私が悲しい思いをしないといけないのか必死に答えも探しました。行きついた答えは「私がわがままで、甘えたで、何も自分でできなかったから」
神様はこんな私に試練を与えたのだと受け取りました。
そうでもないと、この状況を受け止めることができなかった。
と、まあ
すでに高校生までに一番身近な親の死に直面し 辛く悲しい思いと自分の進むべき道
の間で色々と考えました。この頃から周りの人より物事を深く考えるようになったと思います。
あ、それから
母と約束していた看護学校は無事合格。准看護師試験にも合格し
私は奨学金を借りて、看護学校の寮に住みながら2年間を過ごしました。
10代での人生観
両親を亡くして考えることは、
自ら命を絶った父と
生きたくても生きれなかった母の命
この2つの命の差
父も苦しかったのかもしれない。けれど後に残された者の悲しみが計り知れないこと、
そして「人生から逃げた」ことが許せなかった。
母は意識がもうろうとする中「まだ死ねない」とつぶやいていました。
私はこの先、どんなに苦しいことがあっても父のような死に方はしない。
生きたかったのに生きれなかった母に顔向けができないから。
だけど、こうも思いました。
私の目から見て決して楽しく幸せな人生を送ったと思えない母のような人生は歩みたくない。
人生短くてもいいから パッと 花が咲いて散るような人生にしたい
そう思うようになりました。
そして、どうせなら人生の「どん底」を味わうのもおもしろいかもしれない。
人の失敗や苦労は話のネタになる。お笑い芸人でもないのに、関西人のDNAのせいか
そんなのんきなことも考えた10代でした。
20代:健康であることが奇跡
就職した先での大人の世界は、今までと全く違うものでした。
地位やお金もある医者たち。当時はそれだけで、もてはやされていました。
「医者」というだけでモテる世界。
一緒に毎晩遊んでいた医者を含め、見渡せば浮気をしていない人を探す方が難しい。
そして仲良くしていた、出来の良かった医者は同僚看護師に熱を上げすぎ離婚に至った。
地方から研修のために家族とともに来阪したのに、結果が離婚だなんてありえない。
私は「人間性」という部分で医者は最低だと感じ、絶対に結婚相手にしないと思った。
(まあ、選ばれませんがね、、、)
こうやって、築いた家庭が私の家庭と同じように崩壊するなら、家庭なんて最初からつくらなければいい。私は家庭は作らない。
20代はそう思っていました。
その後、私はICU(高度集中治療室)へ配属となり、いかに自分が奇跡の存在であることを感じます。
勤務していた病院は高度医療を提供する施設で、全国から小さな命が集まっていました。
毎日入れ替わる先天的に異常を持った小さな命。体には10数本の管が繋がり、身体に負担がかかるため泣くことも許されません。そのまま目を開けることなくこの世を去る命もあります。
五体満足で生まれてきた自分、健康で生まれてくる方が実は奇跡なのかもしれない。この体に感謝しかない。
ここにいる母親が我が子を抱きしめられるのは、命が尽きてから。こんな悲しい現状があるなんて知りもしませんでした。
そして、ここでの経験はまた私の人生観に大きな影響を与えます。
看護師になって6年目。
経験も積み重ね、中心的な人材として働くことができるようになっていました。
周りの同期たちはだいたい3パターン化。
①3年目までに結婚・退職
②5年目までに新たな目標を見つけキャリアチェンジ
③行き遅れ、しかたなく仕事に没頭。
私はもれなく3番目。周りの同期の変化を憧れ羨んでいました。
「私も何かしたい」
そう思い、昔からチャレンジしたいと思っていた留学について思い出しました。
この頃、半年から1年の短期間 留学先で仕事をしながら海外生活を経験できる
ワーキングホリデーが盛んでした。
けれど、私は年齢制限をオーバーしていて ここでも「行き遅れ」でした。
そんな私にタイミングよく、これからの人生を大きく揺るがす誘いが来ます。
それは、MLM(ネットワークビジネス)の誘い。
それも、私が絶大的に信頼している先輩も仲間だと聞いて
私は即決!
「よし、私はこのビジネスに1年取り組み結果を残し精神を鍛えよう!
留学には精神力メチャ大事!」と意気込み私は本気なんだ!と勢い余って
7年間務めた病院をあとにしました。
今思うと無謀としかいいようがありません。
30代:人生最大の暗黒時代
お金が絡むと人はこんなに豹変するのか。。。
報酬を得るためにこんな法律まがいなことをするのか⁉
ビジネスとはこんなに汚い世界なのか?
MLMの生活は新しい出会いがあり、楽しさもありましたが、
辛いことの方が多く、一緒に取り組んでいた仲間も信頼していた先輩もいなくなりました。
私はその場から逃れられず、かといって何もできずにじっととどまっていました。
「頑張りつづけていたらきっと報われる」「逃げたら負け」
この考えが私を転落させました。
今の現状を冷静に受け止め、「やめる」「断る」勇気の方が大事だと知りました。
私にはこれができなかった。
気が付けば私は4年という歳月をMLMに費やし、自分に残ったものは看護師時代をはるかに超える多額の借金でした。
お金も信用もプライドも全部無くし「落ちるところまで落ちた」
極貧生活の始まり
いったい自分がどこのローン会社からどれだけ借入しているのか、もはや把握できない。
したくない状態でした。闇金にも手を出し、最後には「もうやめたほうがいい」と闇金のお兄さんに諭される始末。
これって、過去の父と同じ姿?
私は父が自死した時よりはるかに多い借金をかかえました。
父は返済できなく自ら命を絶った。
それだけではないにしろ、私は父のように借金を苦に自分で命を絶つようなことはしない。
けれど、私の考えにも少し変化がありました。
「あの時、家族がもっとお互いを思い合い、大事にしあっていれば。。。」
そしたら父は違う方法を選んでいたのかも知れない。
借金するような原因をつくることもなかったのではないか?
自ら命を絶って「逃げた」と思っていたけれど、父を追い込んだのは
「家族の在り方」だったのかも知れない。
私は、このMLMで出会ったグループの統括的存在の夫妻にとてもよくしてもらいました。
そして、大人になって初めて「家族っていいかもしれない」と感じるくらい
仲がよく、お互いを信頼しあって、見ていて羨やましい光景でした。
私の「家族」に対する考えが変わった頃でした。
さて、これから途方もない借金返済が始まります。
期間は3年間。
今まで全く持って計画性のなかった私。
ここで初めて「計画」というものを身に付けます。(この年でやっとですが。。。)
最長で36カ月、最短で12カ月の返済期間。3年間の返済計画を見える化するために
横に36マス、縦に10数個の表を作り、毎月の返済の度に1マスずつ斜線を引いて
進捗を見える化。こうして返済が終わる日を待ちわびました。
毎月の給与の大半を返済に充てるため、私の手元に残るのはごくわずかな金額。
まともな食事もできず、タバコの本数を増やして空腹を満たし、自分の馬鹿さ加減に悔しくて涙を流しました。
外で空き缶を山盛り集めて自転車で徘徊しているおじ様たちの方がよっぽど豊に見えました。郵便ポストには毎日のように如何わしいアルバイトの広告は入り、金額の良さから
「いいな」と思うことは多々ありました。
しかしながら、ナイスバディではない私の体では務まらないと思い断念。
そして両親にこの品祖な体に生んでもらえたことに、ある意味感謝しました。
また1つ、道を踏み外さずに済みました。
人生どん底を味わうのも面白いかもしれない。
と当時思っていた自分を思い出し、
「人生、思った通りになる」
と、また新たに悟りました。
どん底からの復活
3年後、晴れて借金を完済した時、司法書士の先生から
「よく逃げなかったですね。」
と一言もらいました。逃げる選択肢は与えられませんでした(笑)
本当に辛かった。
けれど、借金を完済し背負う荷物がなくなった時 とてつもない達成感を味わいました。
プライドも信用もなくして0(ゼロ) いや マイナスから再スタートすることになった私。
もう、怖いモノなんてなく「無敵」だと思いました。
この3年間で私が感じたことは
人生に必要なものは 「自分の身、1つ」 たったこれだけ
ならば、自分のやりたい事をもっと追求していこう。
私がそもそも借金を抱えた発端は何だったのか?辿っていくと
「留学」でした。
そうだ!私はこれがしたかったのだ。(あの時から、また年を重ねてしまった。。。)
今度は貯蓄の「計画」
お金が積みあがっていくのを眺めるのはとてもワクワクしました!
そして借金返済から2年後、当時の借金額を上回るお金を作り日本を脱出しました!
(あ、如何わしいバイトはしていませんよ笑)
自分が本当に欲しかったモノを見つける
行先をオーストラリアに決め、「人生の一休みをしよう」
そんな風に留学のテーマを決め海を渡りましたが、私の人生何かと落ち着きません(笑)
何かあればみんなが集いパーティ三昧な毎日を送っていた時、常にある感情が沸き起こる。
「え?なんであの子に彼氏、彼女がいるの?」
「え?あの子より私の方が絶対かわいいはず。。。」
何かと家族ぐるみ、パートナーを大事にする文化。
今まで「彼氏」より「キャリア」に興味があっていろいろ取り組んできたけど、ここへ来てとてつもない孤独感を味わいます。
そうそう、私はこの感覚を味わうのがイヤなのもあって日本から離れたんだ!
なのに、ここに来てより孤独を感じるなんて。。。
私は次第に自信を失くしていきます。
そしてある男性との出会い。
ここで初めて、自分を必要で大事にしてもらえる感覚を覚え心が満たされるのがわかりました。
長年、いつも何かを追い求め、知識を深めたり新しい事にチャレンジしていたけれど
常に心にぽっかり穴が空いている感覚があり、何をしても満たされない。
いったいこの正体が何なのか全くわかりませんでした。
それがこのオーストラリアという地にきて私が気づいたことが
「パートナーが欲しかった」
ということ?
私はこんなことに気づかず、長い年月をかけて彷徨い また大金を使ったのか。。。
と本気でショックを受けました。
だけど、ずっと避けて見ないフリをして自分の気持ちにフタをしていたことも感じました。
「とってもちっぽけな事」をこの時ようやく受け入れることができました。
「自分に正直に生きよう」
この留学で気づけてよかったと思おう!
私にとって、人生で一番大事なモノは
「お互いを大事と思い合える存在・関係=家族」
私、結婚したい!!
この時すでに35歳。
帰国後数年して、出会いから待ったなしで結婚します(笑)
30代の人生観
どん底から始まった30代。
この10年間で私が見い出した答えは
起こったことが問題なのではなく、
その問題をどう捉えて どう行動していくか
どんな人と出会い
どんな環境に自分の身を置くか
これに尽きる!そう思っています。
人を引き寄せることも、自分が歩みよる場合も
その時の自分のレベルによって変わるし、人との縁によっても変わる。
30代はかなり濃い人生経験をし、どこか人生を達観した気分でいました。
40代:人生に残された時間は少ないかも?
40代の幕開けはワンオペ一色!
24時間体制の育児は看護師の夜勤よりキツイ。
30代を終え、人生を達観していたような気になっていましたが勿論まだまだ甘かった。
そうなんです。
子どもと家族の分野は網羅していなかった。
晩婚、超高齢出産は看護師の世界に当たり前。
私は長男が4歳、長女が1歳の時に6年のブランクを経て復職。
久しぶりの病院勤務、家事・育児に毎日 脳ミソ爆発状態。
毎晩、イライラが募り日々少しずつ音量をあげて怒鳴る!
いつの間にか、一種のストレス発散にもなっていました。
そんな、家事育児と仕事を両立できない悶々とした日々を送る中、
立て続けに自分と同年代のママ患者さんを担当。
症状がでてようやく病院にいったらがんの発覚があり入院。
みんな口をそろえて言う
「なんでもっと早くに行かなかったんだろう」
「なんで私ばっかり」
子どもや家族が中心で自分のことは後回し。
今の自分の状況を目の当たりにして、改めて自分自身や今までの生き方に向き合う。
「それじゃ遅い」
そうは言っても、目の前のことに毎日必死。忙しくて時間なんてない!
私も何億回も言ってきた言葉。
私が看護師を目指していた30年前、「人生は80年」なんて言われていましたが、
今や外来診察に来られる患者さんは「90歳」であることがめずらしくなくなりました。
人生の諸先輩方が言う
「こんな年まで生きてたくない」
人生、長く生きればいいというものでもない。
自由の利かなくなった体、周囲の手助けを必要とすること、
みんな自分のために人の手を煩わせたくないと思っている。
健康で自由に体が動き、何かをやろうと思えるのは、
せいぜい60歳までと私は思っています。
だけど、この年齢でもできることは限られる。
そうなると、遅くても考えて行動を起こさなくてはならない年代は
40代半ば~50歳の正に今。
思いのほか、残された時間って少ないのかも?
「天職」だと思って働いてきた看護師という職業。
亡き母との約束もあり、この職業にこだわりもありました。
けれど、家庭を持ち仕事を再開した時に、
今までとは違う感覚をたくさん感じるようにもなりました。
いつまでこの慌ただしい場所で働くのだろう。
この場所でないと看護の仕事を提供できないのか?
決められた時間内で働かなくてはいけない。
選択肢のない勤務シフト。
今更だけど、今だから?
もっと自由にもっとワガママに働きたい!
限りある人生の時間を大事なモノと向き合って暮らしたい。
家族との時間を優先できる働き方がしたい!
そういう思いがどんどん募り
ネットを検索しまくりました。。。
飛びつくワードは
「元看護師が自宅にいながら月7桁稼ぐ!」
思わずのめり込み、またやってしまった。
高額のコンテンツを購入し、とりかかってみたものの
半年ほどでギブアップ。。。
「やっぱり無理なのか。。。」
そう思ったときに出会ったのが「リモラボ」
スキル0でも3カ月でお仕事獲得。
その経験談も内容豊富。
ビジネスに対するギラギラ感がなく
本当に在宅で活かせる仕事のスキルを教えてもらえる場所に巡り合った。
そして私は決めた!
50歳を迎える年、フルタイム看護師を脱却!
スキル0からリモートワークで好きなように生きる!!
このブログでは、今年50歳を迎える私が
天職としていた看護師から脱却し
リモートワークで看護師と同等の収入を得ながら
好きなように生きていく人生をつづていきます。
ここまで長らくお付き合いいただきありがとうございました。